第三話
驚いた。
普通、人間が俺達の姿が見えるようになるのは死ぬ直前だけだ。
そういう人間が稀にいるという事は聞いていたが…。
木の枝に腰掛けていた男は、ふわりと浮き、風とともに彼女の前に降り立った。二人は互いに目が合い、ただ目の前の存在に驚いているのだった。
彼女は、目の前にいる男がおそらく人間ではないだろうことを悟る。あの木からここまで来る時の行動、あれは人間のできる事じゃない。
わずかの緊張と、何者か分からない者を目の前に、彼女は足を引いた。それにつられるかの様に、男も部屋の中へと足を踏み込む。
二人の間で妙な静けさだけが流れた。
その静けさを断ち切ったのは、家中の廊下に通じる襖を引く音だった。
「!母さま」
「あら、起きてたの。まあ、襖を開けてちゃだめじゃない。冷たい風はあなたの身体には毒なのよ。」
そう言うと、母親は中庭に通じる襖を忙しく閉めた。
「…ねえ、母さま」
「なぁに?」
「…ううん、何でもない……(母さまには、この男の人の姿が見えていない…。見えてるのは私だけ……?!)」
よく見ると、母さまのまぶたに影が落ちて見えた。表情もどこかやつれていて、ひどく疲れているよう。
「母さま…何かあったの?」
「あ、ええ…。昨夜お爺さまがね、」
一瞬母親が何かを思い出したかのように、途中で口を紡いでしまった。
「……?お爺さまがどうかしたの?」
「ううん、何でもないのよ。さあ、あなたは布団の中にもどりなさい」
「ねえ。お爺さまがどうしたの。……まさか、お爺さま…」
その言葉の後を察したのか、母親は押し黙ってしまった。
「…母さま、私がこんな身体だから、気を使ってくれてるのは分かるけど、つらい事でも、何でも私から隠さないで言って」
母親は少し考え込み、深いため息をついて、口を開いた。
「昨夜、お爺さまが亡くなられたのよ。…昨日の昼頃家を訪ねた時はあんなに元気だったのに…」
「………。」
「だから今からお爺さまの家に行かなくちゃならないわ。あなたも早く布団の中に入りなさい。母さんはあなたの事が心配なのよ。分かってちょうだいね。」
「うん……。」
母親は、静かに部屋を後にした。
「(昨夜狩ったじいさんは、この娘の爺さんだったのか。……皮肉なものだな。)」
祖父の死を知った彼女は、何処か遠くを見つめ、視線を落とし、ずっと自分の方をじっと見ている男を、ゆっくりと振り返った。
「…あなたは、誰なの。人間じゃないんでしょう?私にしか見えてないみたい。」
「ああ。人間じゃない。…だが、今は俺が何者なのかは、おまえ自身のために聞かない方がいいと思うが。」
「さっき、私と母さまの会話聞いてたでしょう。つらい事、苦しい事を私の前から遠ざけないでほしいの。いつか知る事になるなら、今聞くわ。」
「なら言うが、俺は死神で、おまえの魂を狩りに来た。」
「……死…神…? 私、死ぬの…?」
あまりの唐突な事に、話がうまく飲み込めずにいるようだった。
「だが、おまえの命日は今日じゃない。いつなのかは、絶対に言えないけどな。」
「…でも、あなたがいるって事は、それは近いうちなんでしょう?………そう……私、死ぬのね」
「驚かないのか」
あまりにも平然としている彼女の態度に、逆に男の方が驚いているようだった。
「と言うより…、いつ死んでもおかしくない身体だから……。私ね、せいぜい十五歳までしか生きられないだろう、ってお医者さまに言われたのよ。でも今年誕生日を迎えて十七になった。二年も長く生きられたのよ。それなりに、つらい事だっていっぱいあったけど、楽しい事だっていっぱいあった。普通の人と比べたら、ほんの短い人生だったけど、出会った人達はいい人ばかりで、良くしてもらって………うん、悔いはないわ。」
そう言い切った彼女の言葉からは、外見とは裏腹に、強ささえ感じられた。だが、その強さの裏に潜む影に、この時はまだ、気づかないのだけれど。
「ところで、ねえ。あなた名前は何ていうの。私は深雪」
男は深雪の質問に、少々口ごもりながらも答えた。
「……クロガネ」
「くろがね…。ん?どうかしたの」
「あ、いや。人間から名前を聞かないようにしていたから」
「どうして?」
「魂を狩る相手に情が移らないように」
「………でも、それって、少し悲しいわね…」
「?………」
深雪が布団の中に入ろうと、下に視線を向けたとき、畳の上の一枚の花びらに気づき、そっと拾い上げた。
「この花びら……野紺菊」
「ノコンギク…?」

「野菊の一種よ。毎年秋頃になると、ここの中庭にも咲くの。小さくてここからじゃ他の草花に隠れて、見えないから。きっと襖を開けた時に、あなたと一緒に入ってきたのね」
深雪は野紺菊の咲く様を思い浮かべて、穏やかに微笑んだ。
「……その花、好きなのか」
「?ええ」
「そうか…」
クロガネはその言葉とともに、外へと通じる襖の方へ振り返り、閉まった襖を、幽霊のように通り抜けた。
深雪は、何処へ行くのかと、襖を開け、クロガネに問うた。
「…仕事だ。他にも行かなければならない所がある。」
「そうなの」
「……悪い。」
「別に謝ることなんてないじゃない。それがあなたの役目なんでしょう。…ねえ、また明日来れる?あなたと喋っているのは楽しいわ」
「………」
クロガネは返事をかえさずに、空を仰いだ。
そして、深雪の前に降り立った時と同じく、風のように浮き上がり、そのまま空高くへ溶けるように消えていった。
初めてあんなに人間と言葉をかわした。
それにしても、普通ならば人間は、自分の死を認められず、俺の存在さえ否定するものだ。だが、深雪は真っ直ぐに俺のことを受け入れた。
いつか死ぬことを覚悟して毎日を生きてきたせいもあると思うが、それだけじゃないような気もする……。
変な女だ。