第五話
風が凪いでいた。
空はまだほの青いが、雲が朱色に染まりつつあった。
クロガネは地上を見渡し、深雪の住む家のある方角を、紺色の瞳でひたりと見つめる。
日に日に深雪の死気は増していっている。
そうなのだ。彼女の命はあともう四日ともたない。
集中していないと死気もみえなく、あまりにも自然に深雪と接しているせいで、時折忘れてはふと思い出す。
そんな時はひどい虚無感に襲われた。
そしてそんな自分自身に苦笑するのだ。
俺達死神の掟の一つで『人間に深く係わってはならない』というものがある。
どのくらい係わるとその掟に触れるのかははっきりとは分からなかったが、今なら判る。
それは理屈ではなく感覚のようなもの。
これ以上係わると“危険”だと感じるのだ。
だからその掟に触れないよう深雪との間に少し距離を置いて接していた。
死神の掟に反するぎりぎりの位置にいながらも深雪に会いに行くのは彼女に惹かれるものがあったからだ。
それが何なのかは今は判らないけど……。
クロガネが地上を観ていると、何者かの気がこちらに近づいてきているのを感じた。
「(この気は、死神。)」
するとクロガネの背後の空間が水面を打った様に歪み、そこからひとり男が姿を現した。
「…誰かと思えばアカザ、お前か」
「お久しぶりですね。」
この男は兵庫県を担当している死神。白髪銀眼、死神の白を特徴とした、神父のような恰好をしている。
片手には聖書になぞらえたような本をもっているが、それは本来は死神の鎌だ。人の魂を狩る時に鎌に変わる。
「何しに来た」
アカザはさっきまでクロガネが見ていた深雪のいる方角に視線を移して口を開いた。
「……死神の姿が見える人間の娘が、いるようですね」
「……あいつ、閻魔(エンマ)に言われて来たのか。お前も忙しいだろうにご苦労なことだな。」
「閻魔様はあなたを心配しているのです。……あなたは、人間と深く係わりすぎた死神がどうなってしまうか知っているでしょう。それを知りながら危険を冒してまで会いに行くのですか。
今は死神の掟に触れていなくてもその人間の娘に会い続ければそれは時間の問題です。その時間ももうそれほどは残されていないようですが……。」
「……そんなことは分かっているさ」
そう言うと、クロガネはその場から空気に溶けるようにスッと姿を消した。
「クロガネ……」

深雪は相変わらず床に伏せていた。
日ごと身体がだるく、体温が冷えてきているのが分かる。
いつも明日は死ぬんじゃないかと、そう思いながら生きてきたから“死”というものに対しての抵抗はないけれど、ただ……。
深雪は自分の手のひらをぼうっと見つめていると、自分の背後に何者かの気配を感じ、ふと顔を上げ微笑んだ。
「後ろにいるの、クロガネでしょう?」
「うん」
「あなたいつも気がつくと私の後ろに立っているものね。ふふっ」
クロガネは深雪の後ろに立ったまま、視線を床におとしていた。
「……?クロガネ…?」
訝しんだ深雪は後ろを振り返りクロガネの顔を下から覗き込む。
「どうかしたの……?」
クロガネは、なんでもない、と軽く笑んでみる。
そして深雪の背後から横にまわり、そのまま畳の上に腰を下ろした。
「そう…。なんだか元気がないみたいだったから」
「“元気がない”か。……俺が……?…フッ」
「?……(クロガネ……?)」
クロガネは顔を上げると深雪の困ったような視線と目が合い、思わず横にそらしてしまった。
目をそらした先に、茶碗が盆の上に積み重なって置いてあるのが目に入った。食事をすませた後だったのだろう。
「…メシ、食ってたのか」
「え?ええ。さっき夕食をすませたばかりよ」
クロガネの唐突の問にあわてて答えた。
「お茶碗、片付けなくちゃ」
深雪は掛け布団を剥ぎ、肩掛けを羽織ると盆を持って立ち上がった。
「ちょっと待っていてね」
そう言うと、ゆっくり家内の廊下に通じる襖に歩み寄った。
襖を開けようと手を伸ばした時に、突然目の前の襖が開いた。
深雪は驚いて声を上げる。
「あっ、母さま!」
「あら、深雪。ん、そのお茶碗片付けるところだったの。いいわ、母さんが持って行くからあなたは部屋に入っていなさい。廊下は足が冷えるから」
「大丈夫よ。このくらい」
「いいから。ほら、かして御覧なさい」
母親は盆を取ると、深雪の背中を押し部屋へ促した。
「ところで深雪、あなた今誰かと喋ってなかった…?」
母親の言葉に深雪はどきりとし、うろたえそうになった。
「え?部屋には私一人しかいないわよ、母さま」
「……そう、気のせいだったのかしら」
母親は乱れた髪を手でかき上げ、襖を閉めてその場を後にした。
深雪は畳の上に座ったクロガネを見る。
「クスッ。そういえばあなたの姿は私にしか見えないんだったわね。すっかり忘れていたわ。」
再び敷布団の上に腰を下ろし、掛け布団をひざにかけると、深雪はうつむいて溜息をついた。
「…ほんと、私って情けないわね。何をするにもほとんど母さまがやってくれるから、自分一人でだと何もできない。身の回りの世話もまかせっきりで。私…、何もしてないわ……」
深雪の悲しさとも寂しさとも言えない、複雑な横顔を見るとクロガネもうつむいた。
ふたりの間でゆったりとした神妙な空気が流れる。
その中に秒針を刻む音だけが聞こえた。
それからどのくらいたっただろうか。
とても長くも感じたし、とても短くも感じた。
どこからともなく風が部屋の中に入ってきた。その風が静寂の時をかき消す。
クロガネは風に誘われるように口を開いた。
「………“死神”って、なんだろうな…。ずっと魂を狩り続けてきた。何年も、何十年も、何百年も。気が狂うほど毎日同じことの繰り返し。目の前でたくさんの命が消えていくのに自分だけが生きている事が、だんだん判らなくなってくる…」
「……クロガネ…」
クロガネはハッと我に返る。
自分の心の中の奥底にあるものの一部を、深雪を目の前に吐き出してしまったことに自己嫌悪し、苦笑いを浮かべた。
「あー、やめやめ。今のなし。ごめんな。」
深雪の顔を見ると、より一層苦いものを感じずにはいられなかった。
「……ねえ、クロガネ。これはお婆さまからの受け売りなんだけどね。生まれてきた者は皆、誰か大切な人に逢うために生まれてくるのよ」
その言葉には何か心打たれるものがあった。
「……“大切な人に逢うために”……?」
「そう。だから、ねえクロガネ、ありがとう」
「ありがとう?」
「うん。あなたに逢えて嬉しいから、“ありがとう”」
「死神の俺に……?」
「違うわ、そんなんじゃない。死神だとかそんなもの関係ない。あなたが何者でもクロガネはクロガネじゃない」
「……………」
「“死神”という存在が他にいたとしても、あなたという存在は今私の目の前にいるクロガネ、あなただけ。死神であることの前にあなたは“クロガネ”なのよ。」
「………」
クロガネはフッと、何かふっ切れた様な、すっきりした顔に笑みを浮かべた。
「最初に会った時にも思ったけど、おまえってほんと、変な女だな」
深雪は、何それ、と言いながらクスクスと小さな笑い声をもらした。
黒い影がおちている。
外からは朱の光が射しこんでいた。
「朱い……」
深雪は中庭側の襖に歩み寄り、襖を開けて空を見た。
「もうこんな時間なのね。……夕日なんてもう、どれくらい見ていないかしら……」
朱に染まった深雪の横顔を見て軽く笑むと、クロガネも空を見上げた。
「夕日、観に行くか」
「え?」
クロガネが深雪の肩に手をかけ外に出ると、突然生暖かい風が身体を包むように足元から吹き上げ、そのまま宙に浮き上がった。
「えっ!?浮いている………すごい、すごいっ」
そのままみるみると空に吸い寄せられる様に昇り、あっという間に家が手のひらに載るくらい小さく見えるほどの位置まで来ていた。
「驚いたか」
「うん、まさか私も空に浮くことができるなんて思わないもの。こうして空から地上を観ると、こんなにも家や人が小さく見えるのね。」
「深雪、向こう」
クロガネは西の方角を指で示した。
そこには朱色の空の中に浮かぶ、眩しいくらいに大きな橙色の夕日が弧を描いていた。
「………きれい」
深雪はその黄昏の美しさにしばらく心を奪われ言葉を失っていた。
クロガネが深雪の方に顔をを向けると、深雪のその目から涙が一すじ流れていた。
「……深雪」
深雪はクロガネの呼ぶ声に振り向き、着物の袖で涙を拭った。
クロガネの心中を察したのか、それを否定するように首を横に振る。
「悲しくて泣いてるんじゃないの。ただ、あまりにもきれいだったから……」
「そうか」
「うん」
深雪はまた目を夕日に向け、ぽつりと言葉を漏らした。
「“人生の黄昏”……」
「ん?」
「ううん、なんでもない。………クロガネ、本当にありがとう」
その顔には満面の笑みが浮かんでいた。