第六話
空にぽつりと浮かぶ下弦の月がほのかに地上を照らしている。
風は夜の静けさをかき消し、どこか不安を呼び覚ますように吹き荒れていた。
藍闇の中にひとり佇むクロガネ。
クロガネの白の衣はその空色によく映え、月にも劣らぬ姿であった。
遠くから見れば白い大きな鳥の様に見えただろう。
「今夜は、やたら風が強いな…」
クロガネは天を見上げながら呟き、そして少し眉をひそめた。
正直俺は、迷っていた。深雪に会いに行くことを…。
今夜会いに行けばもう後戻りできないような、そんな気がしたからだ。
吹き荒れる風はごうごうと耳元で唸り、それは心の奥まで入ってくるように感じた。
心が…かき乱される。
会いに行くことに迷いはあるが、彼女に残された時間はもうあとわずか…。
時間をあまり意識した覚えはないように思うが、時間というものはこうも早く過ぎていくものだっただろうか……。
風は後ろから背中を押すように真っ直ぐ強く吹いた。
クロガネはその風に抵抗することなく、いつものように深雪の家のある方へ向かうことにした。
ほどなくしてクロガネは深雪の部屋の縁側に面した庭に着き、庭の中心部にある一本の桜の木の枝に降り立った。
ここからはすぐ近くにそびえたつ山が、夜の闇の中に朧げに見えた。山と言ってもそれほど高くはない、近所の子供達が遊ぶには恰好の場所だった。
深雪の住む家の近辺にはあまり民家は多くはなかったが、そのぶん家と家が隣接しないため日当たりも良かったし、少し歩けば店や客で賑わう人通りの多い場所へ出ることもできた。
でもさすがに今は風の強い月の晩。風が民家の間を通り抜ける音と、木の葉が風に舞い掠れる音が虚しく聞こえる。
この庭も庭を彩る花はほとんど見当たらなく、木の葉も枯れ落ちていた。春や夏頃になればこの庭は花や緑で賑わうのだろうが、今は十一月下旬。
桜の木の一メートルほど先にある石灯篭が頼りなく辺りを照らしていた。
地上の時間でいえば今は午後十時をまわる頃だろうか。家の雨戸は全て閉じていて部屋の中の様子も伺えない。
「……やっぱり今日はもう眠ってるだろうな。」
まだ心のどこかで深雪に会うことにためらいがあったせいか、少しいい訳めいた言葉が漏れた。
それでもここまで来たからにはせめて様子だけでも見ていこうと、雨戸を通り貫け、廊下と部屋を仕切る襖をも通り貫けて深雪の部屋へと出た。
すると、深雪はちょうど枕元の照明を消そうとしていたところだった。照明の明かりで部屋は橙色に染まっている。
クロガネが深雪に声をかけようとする前に、深雪がすぐ目の前まで来ているクロガネの存在に気づき、照明を消そうと伸ばした手を止め、ハッと一瞬ひどく怯えたような眼でクロガネを見た。
「クロガネ…」
「深雪……どうかしたか」
「え…」
「ああ、いや……なんでもない。」
そう言うと、クロガネは軽く笑んでみた。
「……そう。クロガネ今日はもう来ないのかと思ったわ。」
「悪いな、もう寝るところだったんだろ」
「ううん、いいの。来てくれて有難う」
深雪の表情は和らぎ、笑みを見せた。
布団の上で深雪は立ち上がり、側の木造の棚の方まで歩み寄る。そしてその上に置かれた野紺菊の活けられた一輪挿しを手にする。
「ねえ、見て。あなたから貰った野紺菊の花、まだあの時のまま綺麗に咲き続けているのよ。」
「へえ。」
「不思議ね。野に咲く花は、摘んでしまったらそう長くはもたないものだけど。」
そう言いながら深雪はそっと一輪挿しを元の場所に戻した。
「クロガネ……、さっき気づいていたんでしょう。」
「?……。」
「あなたがここに来たときの私のあなたを見る眼…。」
「………。」
クロガネはどう答えたものか少し困り、押し黙ってしまった。
「クロガネ、あなたと出逢って今日で五日目……。死を迎える事にはそれほど抵抗はないし、あなたと出逢えて嬉しかったことは嘘じゃない。でも……」
深雪は傍に立っているクロガネの衣の袖を両手で掴んだ。
「…でも、私はこんな身体だから皆に迷惑かけてばかりで…それなのに、私は誰かのために何かをしてあげた事なんてなくて……っ」
突然深雪はぽろぽろと大粒の涙を流しながら頭を伏せ、クロガネの両腕を掴みぎゅっと強く握った。
「私……怖いの…っ。私は与えられてばかりなのに…私はここに何も遺してないのよ……っ何も遺してないのっ……。それなのにこのまま消えていくのが…すごく…怖いっ」
「………」
「その思いが日に日に募っていって……怖かったの…」
嗚咽を漏らしながら深雪は吐露した。
深雪の手が、震えている。細く白い手が強く強く、俺の腕を握ったまま。
表に出すことはなかったけど…こんなにも怯えていたのか…、とクロガネは思う。
外では深雪の泣き声をも呑み込むように、先程にも増して風が吹き荒れていた。
眼が赤くなるまで深雪は泣き続けた。恐怖に包まれた心をすべてその瞳から流すように。
クロガネの腕を握っていた手を解くと、深雪は涙を拭う。
「……ごめんなさい、クロガネ…。こんなことあなたに言っても、あなたを困らせるだけなのに…」
魂を狩る自分自身が深雪にかける言葉も見つかるはずもなく、クロガネはただ首を横に振った。
「深雪…、今日はもう寝ろ。」
「…うん、…そうね。」
深雪は布団の中に潜り横になるとクロガネを見上げた。
「ねえクロガネ、お願いがあるの。」
「ん。」
「私が眠りにつくまで、手を握っててもらえないかしら…。」
「うん。」
クロガネは畳の上に腰を下ろし、両手でそっと深雪の手を握った。
深雪はまだ少し潤んだ瞳でクロガネに微笑みかけ、ありがとう、と小さく言葉を漏らした。
しばらくして寝息を立てながら深雪は眠りについた。
クロガネはそっと中庭へ貫けると、深雪の部屋の方向を見つめた。
───深雪に惹かれる理由が判った。
彼女は、俺に似ていたのだ。
誰にも何もしてやれなく苦しんでいた自分自身に。
それに…
死神だとか、そんなものは関係なしに俺は俺だと受け入れ、深雪という存在の俺の居場所をくれた。
ここにいてもいいんだと、生きていてもいいんだと言っているような気がした。
それがすごく、嬉しかった―――。
「だから……」
クロガネは言葉の途中で口を紡ぎ、その場から翻し姿を消した。
此処、冥界への入り口の近くの闇だけが支配する空間。
冥界へ行く時はかならずこの空間を通ることになる。
寒さも温かさも感じられなく、自分の足音さえ聞こえない静けさ。
ただひたすらに闇が続くばかり。
もしも普通の人間がここに来たのなら闇に迷い、二度と戻ってこれないだろう。
ただし冥界に仕える者ならば迷うことなく冥界への門まで辿りつくことができるのだ。
そしてその門の手前には一つの影が見えた。アカザだ。
死神はめったに冥界へは行かないのだが、何か用があるのだろう。
アカザは軽く門を見上げる。
その闇の中に建つ一つの巨大な入り口には圧倒されるものがあった。
門は上部が半円型の石門で、門の上には木造の櫓(やぐら)がのっており、櫓の壁は朱塗りで屋根の瓦は緑色の瑠璃瓦。櫓の中央には黒の扁額に金で『冥界』と書かれている。
アカザが足を進めると、巨大で頑丈そうな鋼鉄の門の扉がひとりでに開いた。
中へ入ると、白い艶のある石のタイルが床一面に敷き詰められていた。横はどこまで続いているのか見えない。門外から中の様子を見ることはできないが、想像以上に広大だった。
正面へ真っ直ぐ進んでいくと、二十段ほどあるであろう階段が上へと続いていた。幅は五人ならんで歩けるほどだろうか。
階段を上ると、そこにはどこか中国の紫禁城を思わせるような城が雄大に建っていた。
壁、柱は門の櫓同様朱塗りで、瓦も同様緑色の瑠璃瓦だった。
ここがこの冥界を治める閻魔(エンマ)の棲む場所であり、また、城のどこかには死んだ魂が辿りつく場所もあるのだ。
アカザは城の中へ入っていく。
中へ入ると、正面、左右に廊下が枝分かれしていた。
アカザは正面へと進む。
部屋の扉にはきらびやかな金などの装飾、柱には彫刻の細工が施され、廊下の途中には小さな木造の卓の上に美しい白磁器の壺が飾られるなど華やかだった。
しかしそれとは裏腹に、室内はほのかに薄暗く、奥へ奥へと行けば行くほど闇が強くなるような気がした。
いくつの部屋の扉の前を通り過ぎただろうか。
廊下の途中では冥界で働く者たちに数人会った。冥界に仕えるのは死神だけではないのだ。だがそれはまた別の話。
さらに奥へと進むと、突き当たりには一つの大きな扉があった。
この扉には金で鳳凰(ほうおう)の彫刻が施され、鳳凰の眼には紅玉、翼のところどころに瑠璃がはめ込まれていた。
そして扉の両端にはこの扉の守をする男が二人立っている。男二人はアカザの背丈の頭二つ分ほどの高さで、黒い鎧を身につけ、険しい顔つきをしていた。
アカザは扉の前で会釈をする。
すると扉の向こう側から声が聞こえてきた。
「…アカザか。中へ入れ」
少し低めの艶のある声の主はアカザを部屋へ招いた。
扉の両端に立っていた大柄な二人の男は無言で扉を開く。
アカザは赤い幾何学模様の絨毯の上を正面へ歩いていった。
真っ直ぐ進んでいくと、三段の低い階段を登ったところに皇帝の椅子のような堂々とした趣のある椅子の上に、アカザを招きいれた者が座っていた。
この人物こそ冥界を治める閻魔本人であった。
影が強く表情ははっきりしないが、漢王朝時代の中国の着物を身に着け、紅の髪色をしている。
アカザは閻魔の前まで来ると、膝を折り左足の膝を床に着け、頭を伏して深く礼をした。
「アカザ、おもてを上げよ。」
「はい。」
「そなたが此処へ来たのはクロガネの事でであろう。」
「はい…。クロガネに人間の娘と会うのを止めようとしたのですが……」
「分かっておる。」
「え…」
閻魔は何もかも知っているような口ぶりで椅子から立ち上がると、足を進め、アカザの前を横切り部屋の窓の前で立ち止まった。
窓の外の向こうには曇った空のなかに紫の稲光が走っている。その景色を眺めながら閻魔は口を開いた。
「…クロガネ、あやつ……掟をやぶりおったわ。」
青く晴れた休日の午後二時過ぎ。
日差しは強く、寒いこの季節に日の光は暖かく降りそそぐ。
クロガネは深雪の家を訪れていた。
真っ直ぐ深雪の部屋へと向かったのだが、いつも部屋にいるはずの深雪の姿は見あたらず、クロガネは家内の廊下へ出て辺りをきょろきょろ見渡した。
「(──いないな。深雪の気配も感じられないし…。そういえば他の家族の気配も感じられない。出かけたかな…?)」
また後で訪ねようと深雪のいない家を後に外に出た時、家の門のある方向から人の声がした。
クロガネは門の方へまわると、深雪と母親、それと深雪の父親らしき背広を着た男が家へ帰ってきたところだった。
深雪はめずらしく着物ではなく真っ白なブラウスと上着を羽織り、丈膝下の深い緑色のスカートを着ていた。髪にはスカートと同じ色のリボンを付けている。

晴れた日差しの中、宙に浮くクロガネの視線に気がついた深雪は嬉しそうに小さく手を振った。
それを見て、クロガネは目を細めて笑む。
「深雪、何をしてるの。はやく中に入りなさい。」
先に家の中に入っていた母親が玄関から深雪を呼んだ。
「あっ、はあい。」
深雪が家の中に入って行くのを見届けると、クロガネも深雪の部屋の方へと戻った。
縁側で座りながら空を眺め深雪を待っていると、ほどなくして部屋の襖が開く音がした。
「──ああ、深雪。」
クロガネは振り返りながら部屋の中に入る。
「昨夜は、ごめんなさい…」
少しきまりが悪そうに深雪はクロガネを見た。
「いいって。」
クロガネの返答に深雪は無言で微笑んだ。
「それより今日は珍しく出かけてたんだな。」
「うん。なんかね、今日朝起きたら久々に体調が良くて気分が良かったから、母さまにお願いして街まで出かけていたの。休日だから父さまも一緒に。」
「そっか。楽しかったか」
「うん。」
深雪はしばらく嬉しそうに、両親と過ごした街での出来事をとりとめもなく話した。
時は心地よく流れる。
ふと、深雪はクロガネの顔を見る。
日差しの中でクロガネを見た時には気づかなかったけど、よく見るとクロガネの顔色は少し青ざめていた。
「ねえ、クロガネ?あなた顔色が悪いわよ…。大丈夫……?」
「ん…顔色が悪いって俺が? 大丈夫だ、なんでもないよ。それに死神が顔色が悪いなんて変だろう。」
「そう?死神が顔色悪いのって変、なのかしら?」
クロガネは、くすりと穏やかに笑んだ。
深雪は一瞬どきりとした。
クロガネのその穏やかな笑みは、なぜだかあの時二人で見た黄昏を思い出させたから…。
なぜ思い出したのかは分からない。
分からないけど、“黄昏”には物事が終わりに近づくことの意味もあるんだもの……。
ざわめきが押し寄せる───。
(ほんとうに…本当に大丈夫……?)
夜になっても胸のざわめきが止むことはなかった。