最終話

いつもと変わらない世の中、いつもと変わらない家族、いつもと変わらない部屋の中。
この頃変わった事と言えばクロガネが私を訪れるようになったこと。
普段家を訪問してくる人といったらお医者さまくらいだったから、クロガネが来るのを本当に心待ちにしていた。
そして今日も私の傍らにはクロガネがいる。
特に何をするでもないけれど、一緒にいてとりとめのない話をするのが好きだった。
「深雪、今日も体の調子いいみたいだな。」
「ええ。なんだか体も軽くなって気分もずいぶんいいの。一昨日までの体調が嘘のようだわ。」
「うん、…それでいい。」
「…………?」
クロガネはなんでもないと言うように、にっこり笑んだ。
その時廊下側の襖が開いた。母親だ。
「深雪、ちょっと真一のところに行ってくるから留守を頼むわね。」
「うん、分かった。」
そう言うと母親は襖を閉めて、外出した。
「真一?誰のことだ。」
「私より六つ上の兄さまよ。」
「兄がいたのか。」
「ええ。兄さまは将来画家になりたくてね、今一人暮らしをしながら絵の勉強をしているの。父さまは兄さまが画家になるのを反対しているんだけど、たまに母さまは兄さまの所に差し入れを持って行ったりしているのよ。」
「へえ〜。まあ画家だけで暮らしていくには不安定な職業だからな。」
「ところでクロガネ、あなた昨日より顔色悪いんじゃないの…?」
「あはは、昨日も言ったとおり気のせいだよ。俺はどこも悪くなんかないさ。心配すんなって。」
「でも……」
「…ああ、俺もうそろそろ行かないと。」
「クロガネ。」
クロガネは深雪を振り返る。
「じゃあ深雪、また……明日。」 深雪の心配を遮るようにクロガネはその場を後にした。
「クロガネ……。」


青く澄みきった京都の上空に、兵庫を担当する死神のアカザがいた。
閻魔にクロガネのことを報告しに行ったその時、閻魔に持ち場に戻るよう言われたのだが、クロガネのことが気になって様子を見に来ていたのだ。
風は穏やかで、ひんやり冷たい空気がアカザには心地好かった。
「閻魔さまは、もう心配するなと言われたが……。ん……」
アカザは死神の気を察して、その気の感じる方へ行った。
もちろんその気の主はクロガネである。
「アカザ……お前まだ京都にいたのか。いいのか、兵庫に戻らなくて。」
「私の事は大丈夫です。それよりあなたは………なっ?!」
アカザはクロガネの纏う気がひどく乱れ弱っているのを感じ取って眉をひそめた。
「…あなた…やはり…。閻魔さまがおっしゃたとおりなのですね……。」
「………。」
「何故……。」
クロガネはアカザの目を見る。
「アカザ、これは俺が決めたことだ。後悔はしていない。…たとえ俺が無に還るのだとしても。」
「あなたは、あなたは死神が無に還るという事がどういうことなのか、分かっておいででしょう。人間の“死”とは違う。私たち死神は闇より生まれし者…。無に還るということは……、あなたという存在が無に還るということは………」
アカザは悲しげな表情を浮かべながら視線を落とした。
「……すまん…」
天と地の間。
見上げた天(そら)には、白い月が青空の中ぼんやりと姿を現していた。いずれ来る夜を待ちわびながら。

そして日は昇り、朝を迎える………

七日目

クロガネは遠い遠い過去の記憶を振り返ってみる。
自分自身が生まれたのはいつだったか、どれだけの時代の移り変わりを見てきたか、そしてどれだけの人間の死に様を見てきたのか……。
長い時を生きてきた。
おそらく深雪が思っているよりも、長い長い時を。
死神として生まれてきても、極稀に心の奥底から波が押し寄せてくる。自分の存在理由を。
それがちょうど深雪と出会ったあの日からだったのだ。
偶然なのか運命なのか…。
しかし偶然と言うにはあまりにも時機が良すぎ、運命と言うにはあまりにもその言葉が甘すぎるような気がした。
クロガネは自分の手のひらをじっと見る。
命ある人間に深く関わってはならない、という死神の掟を破るとその死神は無に、正確には闇へと還ってしまう。
つまり生まれる前の状態に戻るのだ。
“闇”には自我も無く、個も無い。ただ“闇”なのだ。
故に死神たちの間では『無に還る』と言う。
その無に還るという身体の変化にはクロガネ自身も気づいていた。
身体の内側から自分が磨り減らされていく、そんな感覚だ。
クロガネはまぶたを閉じ、ゆっくり目を見開く。
「もうあまり時間はない、か……。」

日は徐々に昇り、深雪の部屋の中を明るく照らしていた。
深雪は肩掛けを羽織り、外に通じる襖を開け空を見上げる。
空には雲ひとつなく、ただただ青い空がどこまでも続いていた。でも今までに見たこともないほど鮮烈な青空は、どこか不安を掻き立てられた。
軽く唇をかむ。
今日もいつも通りの時間に起き、決まった時間に母親が朝食を運び、深雪はそれを食する。
それが日常の朝。
でも何かどこかがひどく違う、そう感じていた。
深雪はクロガネのことが気にかかっていた。
日当たりのいい部屋の中で、クロガネが来るまでの間不安を抱えながら時間をもてあます。

思えばクロガネは死神で私の魂をとりに来たのだ。
「今日で七日…」
深雪はクロガネに貰った野紺菊の花を見る。
野紺菊の花は本当に不思議なことに枯れることないまま咲き続けていた。
深雪は野紺菊を一輪挿しの中から抜き取る。
「お前はきっと、クロガネから命をもらったのね…。死神は命を奪う者ではなく、次に生まれ変わるための新しい命を授けてくれる者なんだわ……。」
深雪は野紺菊を戻すと、ふと思い立って部屋から出、裏庭の方へとまわった。
「クロガネが言うにはたしかこの辺に……あ、あった。野紺菊の花。」
嬉しそうに野紺菊を見つけると、足を屈めてしばらくその花に見入っていた。
「今年はほんとうによく咲いてるわね。もう少し寒くなると散ってしまうかしら。でもこんなに懸命に咲いていて、健気…。」
深雪はそっと立ち上がり、また自分の部屋へと戻ると、ちょうどクロガネが中庭の方から入ってきたときだった。
「あ、クロガネ。」 クロガネはいつもと変わりない笑顔を浮かべていた。
「退屈そうな顔だな。」
「ええ、だって母さまも出払っていて私以外だれもいないんだもの。話し相手といえば野紺菊の花くらいかしら。」
深雪は軽く冗談を言う。
クロガネは深雪の声に耳を傾け、笑いながら畳の上に腰を下ろしあぐらをかいた。
「ねえ、クロガネ。」
「ん?」
「この間から少し気になってたんだけど…、あなた私に何か隠していない…?」
「…どうした急に。」
「だってクロガネ最近変なんだもの。」
深雪のその言葉を聞きクロガネの表情に一瞬陰りが見えた。
「何も隠してないって。お前は少し気にしすぎだ。」
「嘘!」
「深雪………」
クロガネは眉をひそめ少し悲しげな顔をした。
「クロガネ、最初にあなたに逢った時に、あなたは私がいつ死ぬのかは教えられないって言ったけど、私が死ぬのはいったいいつなの? だって変じゃない。あなたに逢った時から私はいつ死んでもおかしくない。もう…今日で七日目…。ねえクロガネ。」
深雪は問い詰める。
クロガネは畳の上から立ち上がり、首を横に振った。
「だめだ、教えられない。」
「……クロガネ。」
深雪は胸元で左の手の甲を右手で重ねるように握り合わせる。
「私は…、心配なのよ。この頃あなたの顔色も良くないし………。何だかまるで、私の体の調子が良くなるにつれてあなたの顔色が悪くなってるみた…」
次の瞬間深雪は自分の口から出た言葉にぎょっとした。
手のひらには夏でもないのに汗がじわりと滲む。
「…まさか……ね、ねえそうなの…?!」
深雪は狼狽の色をを隠しきれずにクロガネの前に歩み寄り、クロガネの両腕を掴んだ。
そして掴んだクロガネの腕を見てさらに驚愕し、目を見開いた。
掴んだ腕が半分透けかかっていたのだ。
「何っ……これ……。クロガネ……あなた消えかかっているの……? もしかして私のせい!? ねえ、そうなの?!。」
「深雪…、落ち着け。お前のせいなんかじゃない。俺が決めたことだ。」
深雪は掴んだ腕を放し、動揺しながら後ずさりする。
「だ、だめっ。…クロガネお願い、私の魂を冥界へ連れて行って。」
「な………」
「私は…っ、あなたの命と引き換えにまでして生きたくなんかないわっ。お願いよっ」
「…………。」
「クロガネっ。」
クロガネはうつむき、無言のまま魂を狩る漆黒の鎌を召喚した。
鎌を握った手を深雪にめがけて振り下ろそうとしたが、途中で思いとどまりその手を止め、そのまま下ろした。
「…………できない。」
クロガネがそう言った次の瞬間、下ろしたはずの鎌を握った右手が自分の意思とは無関係に、深雪にめがけて振り下ろそうとしていた。まるで何者かに操られているかのように。
「なっ……!?」
クロガネはその鎌を振り下ろすまいと必死に抵抗する。
「…深雪……っ、逃げろっっ。」
「え……?」
「(この力は……閻魔っ!!)」
しかしクロガネの必死な抵抗も空しく、漆黒の鎌は深雪に振り下ろされてしまった。
それと同時に操られていた右手に加わっていた別の力から開放された。
「深雪っ!!!」
クロガネは深雪のもとへ駆け寄り、畳の上に倒れた深雪の身体を両手で抱き起こす。
「……クロ…ガネ…?」
「(まだ意識がある……?)」
クロガネは側にある漆黒の鎌を見ると、深雪の魂が少しずつそこに吸い込まれていっているのが見えた。
普通ならば一振りで人間の魂は完全に鎌の中に吸い込まれるのだ。
「(…これも閻魔のしわざか)」
クロガネは深雪の頬に触れると、深雪はまぶたを開きクロガネを見つめた。
「深雪………」
「クロガネ……そんな悲しそうな顔をしないで…。これで…よかったのよ……」
「………」
「ねえクロガネ……、…私が何かを遺したかったのは……生きた証が欲しかったのかもしれない……。そして……誰かの特別な存在になりたかった。そしたら私が死んでしまっても、その人の心の中で私は生き続ける……そんな気がしたの。死ぬことよりもすぐに忘れられてしまうことの方が、怖かったから……。」
「……お前の両親にとってお前は特別な存在だろう。お前のことを大切に思っていることがよく分かる……。俺も……お前と出逢った事を忘れない……ずっと…。」
「ありがとう……クロガネ…。」
深雪は目に涙を浮かべ微笑んだ。
「クロガネ……私が言ったことを忘れないで……。皆、誰か大切な人に逢うために生まれてくるということを……。きっと……この先も…まだ見ぬ大切な人に………出逢うから………」
深雪は眠るようにまぶたを閉じ、息を引き取った。
「深雪……っ」
クロガネは深雪の身体を強く抱きしめると、まだ敷かれたままの布団の上に深雪を運び、そっと寝かせた。



畳の上に転がったままの鎌を拾い上げ、外に出ようとした時に頭上から閻魔の声が聞こえてきた。
「クロガネよ…、余を恨むな。おぬしはあのままだとその娘に完全に命を喰われておった。それが“生きる人間に深く関わるな”という死神の掟の所以よな。」
「…俺はそれでも構わなかった。」
「のう、クロガネよ。余はおぬしを失いたくはないのだ。しかし掟を破った罰を与えねば余も示しがつかぬ。」
「好きにしろ。」
「おぬしは他の死神と比べて力が強すぎる。稀に人間に死神の姿が見える者がいるのは、その人間自身にそういう力があるせいでもあるが、死神の力が強いとそういった人間が敏感に反応しやすくなるのだ。よって、その強すぎる力を封印することにする。」
閻魔がそう言うと、クロガネの身体を青白い光の膜が包み、その光の膜はクロガネの体内へと吸収された。
力が封印されたのだ。
すると、十代後半くらいの姿だったクロガネは、十歳くらいの少年の姿になっていた。
「その姿は力が封印されたためであろう。自分のその姿を見てこの日のことを忘れぬがいい。」
「ふん、ありがたいな。…一生忘れるものか。」

それからしばらくして、深雪の部屋から家に帰ってきた母親の悲鳴が聞こえてきたのは、俺が空高く消えようとした時だったか。
母親が叫びながら何か言っていたような気がするが、その後の事は俺は知らない。


季節はめぐり、野紺菊の花が咲く頃君のことを思い出す。
『皆誰か大切な人に逢うために生まれてくる』という君の言葉に隠されたもう一つの意味を、俺は後で知った。
あれはきっと“生きて”ってことだ。
そういうことだと思う。


時代はめまぐるしく変わってゆく
それでも確かな想いは変わらずこの胸の中に。


ねえ、クロガネ
私、あなたに逢えて嬉しかった
嬉しかったの
だから―――…生きて


Copyright(C) ao.All Rights Reserved.