【 第三幕 〜桜のなかのかくれんぼ〜 】
もういいかい
まぁだだよ
もういいかい
まぁだだよ────…

兵庫県神戸市。
お昼時で人気の少ないとある住宅街。
そこの中心に位置する大きな公園には、使い古された遊具の向こう側に、五本の桜の木があり、
その桜に向き合うように二人掛けのベンチがぽつりと設置されていた。
そのベンチに、どこか寂しげな年老いた男の後ろ姿があった。
背中は少し丸まっているが、雰囲気はどことなく清潔感があり、側に木製の杖がベンチにもたれかかる様に置かれている。
老人は顔を上げ、目を細めながら目前の桜を仰いだ。
ここの桜の木々はつい数日前まで満開に咲き乱れていたが、花が徐々に散り始めていた。しかしその光景は憂いを微塵も感じさせないくらい、無数の花弁が宙を舞うその様は美しかった。
その花弁は時間をかけて芝生の上を斑にあわい桃色で染めている。
「ああ、今年もこの時期を迎えられて本当によかった。なあ、聡介。」
老人は嬉しそうに呟いた。
そこへ、背後から一人の少女が近づいてきた。
少女は老人の傍まで来ると、「横に座ってもいいかしら?」と声をかけてきた。
それに「どうぞ。」と答え、腰を左に少しずらした。
黒い着物に身を包んだ少女はゆっくりとベンチに腰を下ろした。
老人は少女のその姿に 『近くで葬式でもあったのだろうか。』 と思う。
少女は老人を見てニッコリと微笑むと桜を見上げた。
「ここの桜はとても見事ね。一本一本の花の数がすごいわ。それに目が眩むほどの桜吹雪。」
それを聞いて老人は自分のことのように嬉しそうに、再び桜に目を移した。
「すごいだろう。だが昔ここにはもっと桜の木があった。三十本くらいはあったかね。戦争でだいぶ焼けてなくなってしまったが、散る頃はこれの比じゃないくらいすごかったよ。」
「へえ。それは見たかったわ。」
「だがこんなにきれいな桜の木たちを切り倒して、ここに新しくマンションを建設するという話が出てたんだ。」
「あら、もったいないわね。でも“話が出てた”ってことは、その話なくなったの?」
「ああ、私が娘を説得してご近所の皆さんから署名を集めてもらった。ご近所の人達もこの桜がなくなるのは寂しいって言ってくれる人も多くて、すぐに署名は集まったよ。」
「それでその署名は?」
「もちろん建設会社に提出してきたよ。二週間後に返事を出すということで待ってたんだが、今日その返事をもらったばっかりで、嬉しくて今ここでこうして桜を眺めてたんだ。」
「ふふっ、そう…。でもその建設会社もよく身を引いたわね。」
「ここからそう遠くない場所に、もう一か所マンション建設の候補地があったらしい。」
老人は目を細め、眉をひそめる。
「本当によかった。ここは私の思い出の場所なんだ。建設会社の担当者から返事を聞くまでは、死んでも死にきれないという気持ちだったよ…。」
「───…それが理由かしら…?」
少女がぽつりと呟いた。
だが桜に思いを馳せていた老人には聞こえていないようだった。
「ねえ、ここがおじいさんの思い出の場所だって言ったわね。せっかくだから、その話、私に少し聴かせてくれないかしら?」
その言葉に老人は少し驚いたかのように少女を見た。
「今時めずらしいお嬢さんだね。こんな老人の思い出話なんか聴きたいのかい? 私にも君と同じ年くらいの孫がいるが、私の話なんかちっとも聞きやしないよ。」
「私こう見えてもそんなに若くないのよ?」
「ん…そう、なのかい…?」
老人は少女の言葉にどう返していいのか分からず、少々困った顔をした。
「ふふっ、冗談よ。ねえ、思い出話を聴かせて?」
「──…ああ。とはいっても、そんなに大した話はないが…。家の近所だったから、子供の頃はよくここで遊んでいたんだよ。桜の花が咲く時期はとくにね。…幼馴染の聡介。それと聡介の姉の鈴子、兄的存在の雪彦さん、聡介のいとこの吉昭(よしあき)とさっちゃん…。」
「そうすけ…。」
少女はその名を確認するように呟いた。
「ああ、聡介は私の親友だ──…。」
老人はゆっくりと昔を思い起こしながら話し始めた。
聡介はね、昔っからすごくおっちょこちょいだったんだよ。
左右違う靴を履いて学校にきたり、テスト用紙に自分の名前の漢字を書き間違えて提出したり。川に行った時ははしゃぎすぎて、足を滑らせ溺れかけたこともあったなあ…。
でもイタズラ好きで、クラスの皆を引っ張っていくリーダー気質だった。
同じクラスになることも多かったが、男友達はたくさんいたな。
もっとも、イタズラ好きが災いして女子からはよく怒られていたけどね。
そんな聡介といると飽きなかったし、すごく楽しかったよ。
遊ぶ時は大体は家から少し離れた空き地が多かったが、桜の季節になるとここでメンコやコマで遊んだり、同級生の友達交えて鬼ごっこをしたりしてた。
そこに、小さい頃からよく私と聡介の面倒を見てくれた、六歳年上の雪彦さんもたまに入ってきて、一緒に遊んだよ。
私達が十二を迎える年の春には、聡介のおばさんが三つ下の吉昭、妹のさっちゃんと遊ぶようたのまれて、それから一緒によく遊んだ。
その分同級生の友達と遊ぶことが減ったから、聡介は時々嫌そうな顔をしていたけど、私は嫌ではなかった。
自分で言うのもなんだが、おっちょこちょいな聡介の横にいつもいて、面倒見のいい性格になっていたのかもしれないな。
雪彦さんも、もう私達と遊ぶ年頃ではないだろうに、吉昭やさっちゃんと遊んでいる時は、一緒に加わって遊んでくれた。
──…ああ、そういえば雪彦さん、将来学校の先生になりたいって言っていたなあ…。
そしてその時ぐらいからかな。聡介の姉の鈴子ねえちゃんも時々私や聡介、雪彦さん、吉昭とさっちゃんが遊んでいる中に顔を出すようになったのは。
聡介は気づいていなかったかもしれないが、鈴子ねえちゃんは雪彦さんのことが好きだったんだろうなあ。
雪彦さんは顔立ちも整っていて、面倒見も良くて優しいからすごくモテていたからね。
そんなメンバー六人で遊ぶ時は決まってこの桜の地でかくれんぼだった。
聡介が姉と遊ぶのが恥ずかしかったみたいで、 『同じ遊びばっかりだと姉ちゃんも飽きて参加しなくなるだろう』 って聡介の考えだったんだけど。
まあ、鈴子ねえちゃんは 『またかくれんぼなの?』 って飽き飽きはしていたが、遊ぶ以外に本来の目的があったから、聡介の手には引っ掛からなかったがね。
桜の季節を過ぎると、少しもの寂しさもあって、この場所以外でも遊ぶようになったが、おかげでひと月程度しか遊べない桜の中でのかくれんぼが、来年も楽しみになったよ。
吉昭とさっちゃんは小さいし、鈴子ねえちゃんは女の子だから近くの木の陰や茂みに隠れることが多かったが、聡介はよく桜の木の上に隠れていたなあ。
…こんなことを言うと少し女々しいかもしれないが、桜が散る頃には視界が遮られるほどの桜吹雪で、この一帯だけ別世界のようにすごくきれいでなぁ、陽の光を反射してキラキラした花弁の雨をくぐりながら皆を探すのは、なんだかとてもワクワクしたのを覚えているよ。
老人は、昔のことを少年に返ったかのような笑顔で話した後、少し間をおいて、寂しそうな表情に変わりまぶたを伏せた。
「けど、そんな楽しかった日々も長くは続かなかったなあ…。」
「………。」
「太平洋戦争、知っているかい?」
「ええ、もちろん。」
「戦争を境に、皆ばらばらになってしまったよ。」
そう言った後、老人は桜を見ながら口をつぐんでしまった。
少女は老人の気持ちを察し、同じように少し沈黙した後、口をゆっくり開いた。
「ねえ。」
「…なんだい。」
老人はゆっくり少女を振り向く。
「聴くことであなたに辛い思いをさせてしまうかもしれないけれど、もう少し“あなた達”の話を聴かせてもらえないかしら?」
「……今では太平洋戦争のことを若者に聞いても、いつあったの?とか、日本で戦争なんてあったの?、なんて言う者もいるらしいが、“戦争”という言葉で、知らなくてもだいたいどうなったか想像はできるだろう?」
「…ええ。でも、私はあなたの事があなたの口から聴いて知りたいの。」
「ふっ、不思議なお嬢さんだな。まるで口説かれているようだ。」
老人が冗談を言うと、少女は「あら。」と目を見開いてクスクス笑った。
そんな少女を見て老人も小さく笑った。
「───…神戸は空襲の被害が大きかったが、私達家族は京都に一人で住む叔母が気がかりで、叔母の家に移り住んだんだよ。」
そうきりだし、小さくため息をつくと老人は再び話し出した。
京都に移り住む話は、私の上の兄二人が軍に徴集される前からしていて、それからほどなくして兄二人に召集令状が届いた─…。
いわゆる赤紙というやつだ。
実際に京都に移り住むことが決まったのは冬になる頃だったかな。
そして京都へ行く前日の事だ、雪彦さんの戦死の知らせを聞いたのは……。
聡介が私の家に駆けつけて知らせにきたんだ。陽に焼けて健康的な聡介の顔が青白くなっていて、今にもこぼれそうな涙を眉間にしわを寄せて必死にこらえていた。
信じられなかったよ、雪彦さんが死んだなんて。…紙切れひとつで死んだなんて言われてもそう簡単に信じられなかった。
『絶対に無事に帰ってくるから。そしたらまたあの桜の場所に集まろう。』
青空を背景に、笑顔でそう言って雪彦さんは戦地へ向かって行ったのを覚えている…。
“神風特攻攻撃隊”。名前くらいは耳にしたことがあるだろう?
そこに雪彦さんは配属されていたんだ。
聡介は
『雪兄ィはお国のために立派に戦って死んだんだ。戦死は雪兄ィの名誉だ。』
ってわざと大きな声で自分に言い聞かせるように言っていたけど、本当は雪彦さんの死を否定したいくらい悲しくて納得していなかったに違いない。
私も納得できなかった。戦争なんてなければ、なんて思った。
人がいてこそ“国”というものが成り立つのに、その“国”が人を殺すのか…、なんてことも思った。
でもそんなこと戦時中に口にできるはずもない。
泣くのをこらえている聡介を前に、私も必死にこらえようとしたが、涙を止められなくて、声を押し殺して泣いたよ。
聡介の話だと、鈴子ねえちゃんは母親の膝に顔を伏せて、声を上げて泣いていたらしい。
翌日、京都へ発つ時、聡介は見送りに来たが、鈴子ねえちゃんは来なかった。
雪彦さんのことがショックで見送りに来れる余裕がなかったのだろう。
別れの時、私と聡介はほとんど言葉を交わさなかった。
聡介が 『またな。』 と言ったのに対し、私は 『うん、またね。』 と返事をかえして、寂しそうな笑顔で互いに大きく手を振っただけだった。
京都に着いてから一度、聡介あてに手紙を送っていたが、返事がかえってくることはなかった。
配達に不備があったのか、それとも返事を書いてる余裕なんてなかったのかもしれないと思った。
聡介たちの状況がいっさい分からなかったから、毎日気になって不安だったよ。
そしてまだ小学生だった吉昭とさっちゃんは、学童疎開で神戸を離れたらしいが、さっちゃんは疎開先で栄養失調になり亡くなったことを伝え聞いた…。
後に本人から聞いたが、無事に疎開先から帰ってきた吉昭は心を病んで、しばらく誰とも口をきくことができなかったそうだ。
あまり多くは語らなかったが、疎開先でいじめを受けていたことを小さく漏らした。
1945年8月15日に終戦した後、私の一番上の兄は帰ってきたが、二番目の兄が帰ってくることはなかった…。
それからしばらくして私達家族は叔母の家を離れて、京都内の別の場所へ移り住んだ。
まだ日本は貧しかったが、徐々に平和を取り戻しつつあったよ。
そして私が再び神戸へ帰ってきたのは、私が二十代半ば頃だっただろうか。
長いこと会ってなかったが、聡介のことを忘れたことは片時もなかった。
神戸に着いて私がもともと住んでいた場所へ行ってみたが、そこには新しく家が建てられてて、他の見知らぬ家族が住んでいた。
それはある程度予想していたが、聡介たちが住んでいた場所へ行ってみると、そこにはなにもなかった。
でも周辺の住民に話を聞いたら、すぐに聡介たち家族が住んでいるであろう住所を調べることができた。
「だが…。」
老人は少しうつむいた。そんな老人を少女は黙って見ている。
「調べた住所へ行ったら聡介の両親と鈴子ねえちゃんに会うことはできたが、その中に聡介の姿だけが見当たらなかった…。」
「亡くなっていたのね…?」
老人は言葉なく頷いた。
「…そう。」
「鈴子ねえちゃんの話だと、聡介が亡くなったその日、聡介は急いだ様子で『すぐ戻る』と言って家を飛び出したらしい。その直後空襲警報が鳴ったが、その時は空襲警報鳴るのが遅れたらしくて…。聡介が亡くなったことを早く知らせてくれれば、と鈴子ねえちゃんに言ったら、自分たちの事でいっぱいで気が回らなかったと言っていた。……あの時聡介は何に急いでいたんだか…。」
「………。」
老人は小さくため息をつくと、しわくちゃになった手の甲をさすった。
「…終戦から二十数年後、吉昭は病を患って三十代の若さでこの世を他界して、鈴子ねえちゃんも去年、旦那さんの後を追うように亡くなったよ…。」
そう言い、寂しそうに桜を仰いだ。
「結局、雪彦さんが 『あの桜の場所に集まろう』 と言っていたことは叶わなかった。……だが、私は今でもこの桜の向こうから、当時の聡介達の声が聞こえるような気がするんだ。ずっとかくれんぼをしているような…。」
「そうかもしれないわね。…いえ、もしかしたら…。」
少女の言葉に老人は首をかしげた。そして少女は着物の袖の中から、茶色の封筒に入った手紙を老人に差し出した。
「…これを、私に……?」
その手紙は、赤茶色の染みで汚れてボロボロだった。
宛先の住所と名前も染みで部分的に汚れていて、文字が読めない箇所もあったが、戦時中住んでいた京都の叔母の住所と自分の名前が記されていることは読み取れた。
しかし、封筒の裏を見るも、差出人の名前が染みで全て汚れてしまっていて読めなかった。
差出人の住所も書かれていない。
「…この手紙はいったい誰からなんだい? だいぶ古いもののようだが……。」
「信じられないかもしれないけど、その手紙は、聡介さんから私が預かったものよ。」
「な……っ?」
あまりの唐突な言葉に老人は言葉を失った。
「あなた、聡介さんが亡くなった時、とても急いだ様子で家を飛び出した、って言っていたわね。その時、聡介さんはその手紙を出そうとしていたんだと思うわ。」
老人はまだ少女の話に頭が混乱し、手紙と少女を交互に見た。
「あの時、私は偶然あの場所を通りかかったのよ…。空襲で建物が崩れ焼けおち、煙の臭いで辺りが充満していた。何処からか赤ん坊の泣き声もしたわ…。その中に聡介さんが血まみれでうつ伏せに倒れていたの。まだかすかに息があって、通りかかった私に 『この手紙をあいつにわたしてくれ』 って……。」
「……お前さんはいったい……。」
「私も詳しいことは分からないわ。手紙を預かった時に彼の名を聞いただけだもの。…でもあなたの話を聴いての推測だけど、あなた京都に着いた時、聡介さん宛に手紙を出したって言っていたわね。その手紙はあなたから届いた手紙へ返信しようと書いたものなんじゃないかしら…?」
それを聞いて老人は眉間にしわを寄せた。
「ほんとうに……これを聡介…が……?」
「信じるか信じないか──…。それはあなたに任せるわ。とりあえずその手紙を読んでみたらどう?」
「…………。」
老人は破らないよう、ゆっくり丁寧に封を開けた。
親愛なる友へ
手紙ありがとう。元気にしているか。
そっちの暮らしにはもう慣れただろうか。
神戸は空襲が激しいが、俺も家族もなんとかやっている。だから心配するな。
お前は昔から心配性だが、人の事ばかり心配しているとおまえが気に病んでしまうぞ。
それから俺たちがよく遊んだあの桜の場所。この間見てきたが、一部の桜の木が焼けてしまっていたようだ。
少しでも多く残るといいが…。
なあ、雪兄があの場所で集まろうって言っていただろう。俺たちだけでもいつか絶対集まろう。絶対だ。
そういえばおまえが京都へ発った後、姉ちゃんも見送りに行けばよかったって後悔していた。
俺もあの時もっとおまえに声をかければよかったと少し後悔している。もっと言いたいことあったはずなのに…。
いや、もう過ぎてしまったことは仕方ない。
おまえは知ってのとおり、俺は文を書くのは苦手で上手く手紙に言いたいことは記せないし、次におまえと会う時まで言いたいことはとっておくことにする。
またいつか神戸に帰ってこい。
おまえが来れないなら俺がそっちへ行ってやる。
早くこの戦争が終わることを祈って。
市川 聡介
手紙の最後に聡介のフルネームが記されていたが、苗字と名前の間に何か文字を消された跡があった。
それを見て、老人は今にも泣きそうに、しわのある顔をさらにくしゃくしゃにした。
「今でも覚えている。この字は間違いなく聡介だ…。それに消されてはいるが微かに残っているこの字、聡介は急かされたりするとよく自分の名前の漢字を書き間違えてたんだ。ほとんどそれはクセになっていたが…。」
そう言いながら手紙の“市川 聡介”の文字を人差し指でなぞると、眉間にしわを寄せた。
「──…でも、だとすると私が聡介を殺したようなものだっ。私が手紙をあの時出さなければ、聡介はこの手紙を出そうと外へ出なかった──…!!」
老人は悔しそうに歯をかみしめ、手紙に顔をうずめた。
「……今、思い出したことがあるわ。その場を去り際、聡介さん 『せめるな』 と言っていたの。その時はなんのことか分からなかったけど、聡介さん、自分が死ぬとあなたが自分自身を責めることを悟って言ったのだと思うわ。 『自分が死ぬのはおまえのせいじゃない』 って。」
「そうすけ……っ。……っ、泣きたいのに涙のひとつも流せないのは…年のせいかな。」
「いいえ。私には見えているわ。あなたの涙。」
それを聞き、老人は手紙をぎゅっとにぎりしめた。
少女はベンチから腰を上げ、ゆっくりベンチの後ろへまわる。
「…ごめんなさいね。あなたに手紙を渡すのがだいぶ遅くなってしまって。私には優先すべき務めがあったし、あなたも引っ越していたから探すのに手間取っちゃって。」
「……お前さんはいったい何者なんだ……?」
老人はゆっくり顔を上げて後ろを振り向いた。
少女はそれに返答することなく、ふっと笑う。その後一瞬強い風が吹くと、桜吹雪が広範囲に舞い落ちた。
風に煽われた花弁を遮るように、少女は手をかざす。
老人は花弁をすべて受けとめる様に仰いでぽつりと一言漏らす。
「ああ、きれいだ…。」
そんな老人の後ろ姿を目にとめ、少女は鋭利な大鎌を出すと、老人をめがけて振り落とした。
それと同時に意識がこときれた老人は、手紙を強く握りしめたまま、ベンチから前かがみに倒れ落ちた。
そしてベンチにもたれるように置かれていた木製の杖も一緒に地面に倒れ落ち、空虚な音を響かせる。
「おやすみなさい。…まさか手紙の受け取り主が思屍人になっていたなんて。それに、七日過ぎてしまっていたのね。でも、それでよかったのかもしれない。」
桜の花弁が思屍人の体をかくすように降り積もっていく。
「かくれていたのは、あなたの方だったのかしら…? 聡介さんの手紙はきっと、あなたを迎えにきたんだわ…。」
桜の花びらが舞う中、少女は静かに姿を消した。
花弁はとめどなく地面に降り積もる。
その体を覆い隠してあの日へかえるために──…。
もういいかい
まぁだだよ
もういいかい
もういいよ────……
第三幕/完